2019年8月、42歳の時に母から腎臓をもらいました。
慢性腎不全が発覚したのはその2年前。新聞記者として「仕事第一」の人生を送り、体を全く省みませんでした。
「病気は自分の責任。人工透析をしながら献腎移植を待つ」
そう決めた私は、大好きな記者の仕事を諦める覚悟も固めていました。
しかし、当時の主治医が生体腎移植を強く勧め、母が「あげるわよ、腎臓」とドナーとして名乗りを挙げてくれたことで、生体移植手術を受けることができました。
私の人生は一変しました。
手術前の2年間、座っているのもやっとだったほど苦しみ続けた体調不良がスッと消え、日常生活に戻れたのです。記者の仕事にも復帰を果たせました。「移植腎を守りながら家族と楽しく生きることが何より大切」と価値観も大きく変わり、妻、娘とむつみ合いながら暮らすことができています。
今、私は「我がこと」として臓器移植や移植医療、内部障害の勉強や取材に取り組んでいます。
今後も日本の臓器移植と内部障害者が置かれた厳しい立場を少しでも変えられるよう、取材を重ね、原稿を書き続ける所存です。それは移植を経験した記者の責務であるとも考えています。
「母の体を傷つけ、腎臓をもらって本当に良かったのか」
その思いが消えない私は、移植手術後も母に謝罪を繰り返しています。あるとき、母は笑みを浮かべながらこう答えてくれました。
「一樹が記者の仕事を全うして、あなたたち一家が笑って暮らせたら、私はそれが一番うれしい。そのためにドナーになったんだから」
精いっぱい仕事をし、家族と前を向いて進む姿を見せる。それが、私にできるただ一つの母への恩返しだと信じて生きていきます。
お母さん、ありがとう。
妻と娘に、ありがとう。
私の人生を支えてくれている皆さんに、
ありがとう。
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