辻本 仁志さん 肝臓移植


 1997年(22歳)の春、介護福祉士の資格を取り、特別養護老人ホームに就職。それまでは、大きな病気をした事がなく、自身の健康に疑いを持った事はありませんでした。
 働き出して3ヶ月が過ぎたある日、いつもの様に当直をしていると、突然手足の末端から痺れが出始め、数時間ほどで壁を利用しないと自力で立ち上がるのも困難になりました。おかしいなとは思いつつ、朝まで何とか自分の業務を勤め、帰宅後近所の内科へ受診。すると、黄疸が出ているから大きい病院へ掛かるよう言われました。兄に連れられ、兄の勤める日赤病院へ掛かったところ、内科、消化器内科、神経内科と回されたのち緊急入院。「ギランバレー症候群」と診断されました。治療の甲斐あって幸い副作用も無く治りましたが、黄疸だけ下がらないのでそのまま消化器内科へ転科。肝生検の結果、胆管が自己免疫により炎症を起こし、徐々に硬くなって狭窄する「原発性硬化性胆管炎」を発症している事が判りました。この病気は、今尚治療法が見付かっておりません。肝移植以外で助かる術が無い為、京大に掛かるよう伝えられました。主治医からは5年持つか10年持つか判らない。治す事は出来ないが出来るだけ維持させましょうと言われました。
 その後、一旦数値が落ち着いたため、仕事に復帰。しかし、働いている内に日に日に疲労が蓄積、初めは5連勤でも平気だったのに、4連勤がしんどくなり、更に3連勤でないと持たないようになっていきました。朝、寝起きで金曜夕方の疲労感が有ると言えば、判りやすいでしょうか。肝機能が落ちると、疲労が取れなくなっていきます。そんな状態を繰り返し、仕事復帰後2年半が過ぎた頃、主治医から検査入院を言い渡され、2000年(25歳)の春、もう移植をしないとあと半年しか生きられないと余命宣告を受けました。兄夫婦にはまだ0歳の息子が生まれたばかりであったため、両親のどちらかから肝臓を貰う事になりました。両親は手術までの間、一番良い状態で肝臓を提供するため、大好きな酒と肉を断ち、毎日朝晩1時間を超える運動をしてダイエットをしてくれました。最終検査の結果、母から肝臓を貰う事になりました。
 成功率80%と言われた手術は成功。母は相当痛かったようですし、父はそんな母と私を泊まりがけで毎日看病してくれました。その後色々有って半年ほど入院が続きましたが、無事退院。これで元気に復活となれば一番良かったのですが、数値が中々安定せず、良くなったり悪くなったりを繰り返しておりました。
 2006年(31歳)春、夜中に大量吐血。意識を失って階段から落ち、救急搬送。肝硬変からくる食道静脈瘤の破裂が原因でした。入院しながら肝臓と静脈瘤の治療をしていましたが、夏の終わりに、「原発性硬化性胆管炎」の再発と診断され、このままでは年内持たないと2度目の余命宣告を受けました。兄は私が血を吐いた頃から薄々予感がしていたようで、次は俺が提供する番だと先にダイエットを開始してくれていました。お陰で検査結果も良好、直ぐに移植手術の日取りも決まりました。
 手術の成功率は再移植と言う事もあり、50%と言われましたが、家族と兄夫婦の支えもあり、驚くほど怖さが全くありませんでした。
2006年10月 手術直前 家族と手術室前で

 再移植は無事成功。数値も今までに見た事がないような良い値まで下がりました。兄の肝臓は私ととても相性が良いようで、移植から11年半経った2018年現在でも、一度も拒絶反応を起こした事がありません。

本当なら25歳で人生を終えていた私。
家族の愛によって、あれから18年も生きる事が出来ました。
社会復帰も果たせましたし、諦めてかけていた正社員になる夢も叶いました。

面と向かってはこっ恥ずかしくて中々言えないけど、心から感謝しています。

家族の愛に 「ありがとう」









  

コメント